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タイ伝統医療が大切にしてきた敬意と感謝の話
皆さんおやっとさぁ!鹿児島のトークセン・ビハーラの折田です。
1月16日
この日が何の日か、知っている人はそう多くないかもしれません。
タイではこの日を「教師の日」と呼びます。学校の先生だけでなく、あらゆる分野の「教える人」に感謝と敬意を捧げる日です。
先日チェンマイで先生から聞いた話が、ずっと頭から離れず、今日はそれを書いてみようと思います。
教師の日という考え方
タイの教師の日は、日本の「先生ありがとう」よりも、もう少し深いところにあります。
知識をくれた人、技を伝えてくれた人、人生の土台を作ってくれた人。
そのすべてに感謝をする日。
面白いのは、ここに上下関係の匂いがほとんどないこと。
「教えてもらったから偉い」ではなく、「教えてもらったから今の自分がある」という、自覚に近い感覚です。
タイ式マッサージやトークセンも同じで、技術以前に「誰から学んだか」が常に問われます。
これは決して精神論ではなく、技の再現性や深みに直結する話だったりします。
ジーヴァカ師という存在
タイ伝統医療を学ぶ人なら、必ず耳にする名前があります。
それが ชีวกโกมารภัจจ์ 師、ジーヴァカ・コーマーラバッチャ。
医学の祖、と聞くと遠い存在に感じますが、タイでは驚くほど身近です。
施術前に祈りの言葉を唱える学校もありますし、名前を出さずとも、その精神は今も技の中に残っています。
「技を使う瞬間には、必ず師がいる」
チェンマイの先生がそう言っていました。
木槌を振るう手、圧をかける指、その判断の一つひとつに、先人の積み重ねが宿っている。
自分一人で辿り着いた技など、実は一つもないのかもしれません。
技は道具ではなく思想
トークセンも、タイ古式マッサージも、やろうと思えば形だけ真似ることはできます。
でも、なぜその場所を叩くのか、なぜその順で行うのか。
そこを知らずに続けると、技はすぐに空っぽになります。
教師の日に思い出すのは、技そのものより、教わった時の空気や間。
怒られたこと、笑われたこと、何気ない一言で視界が開けた瞬間。
学びとは、知識の受け渡しではなく、物の見方の受け渡しなのだと、年々強く感じます。
だから私は今でも、師の背中を思い出しながら施術をします。
今あなたの手の中にあるもの
学生さんにいつも伝えているのは「あなたの手は、もうあなた一人のものではない」ということ。
少し重たい言い方ですが、その手には、ジーヴァカ師から連なる系譜があり、先生たちの試行錯誤があり、失敗と工夫が積み重なっています。
だからこそ、適当に扱ってはいけない。そして同時に、怖がりすぎる必要もない。
技を使うたびに、心の中で一礼する。それだけで、施術の質は確実に変わります。
教師の日に立ち止まる意味
1月16日は、何か特別なことをしなくてもいい日です。
ただ、少しだけ立ち止まって、「誰から受け取ったか」を思い出す日。
そして、その技をどう次に渡すのかを考える日。
それが結果的に、施術を受ける人の安心や深いリラックスにつながっていくのだと思います。
トークセンという技が、単なる珍しい手法で終わらず、文化として残ってきた理由も、きっとここにあります。
関連する施術や学びについては、こちらの記事も参考にしてみてください↓
最後に
〜Na-a Na-wa Rokha Payati Vina-santi〜
私の持つ技術と知識があなたの救いとなりますように
この手に触れる全ての人が健やかに、幸せに過ごせますように
今日もブログを読んでくださって、コップンカップ!
